両親

自分の両親は、自分の子どもに、わざといじわるして、なぶってる。

 

親のことは、子どものころから軽蔑している。

中村信次は暴力、中村郁代は怠惰。

 

父親は、暴力ふるうくせに、自分が何かをしたら、何回も何回も恩着せがましく子どもに向かって「~~してあげた」などとしつこく言ってくる。

自分が体調悪い時は、いつもギャアギャア大騒ぎ。

女々しい奴。

 

両親とも、話しても通じない人間だから、スッとあきらめるしかない。

物心ついたときからそうしてる。

どちらも、絶対に謝らない。ありがとうも言わない。 

 

私は人との接し方が分からないが、親はそれに輪をかけて分かってないんだろう。

学ぼうともしてきてない。

二人して、自分を偽っている、自己欺瞞の夫婦。

それなのに、そこから目を背けて生きてきて、バカ同士で子ども作ってる。

 

自省心がないのだろう。赤ん坊と同じだ。

しかし、他者のことをおもんばかる能力があるべき大人なのにそれがない点で赤ん坊より劣る。

 

父親(中村信次)はメシを食った後、すぐリビングのソファーで寝るが、それも赤ん坊と同じ。

一生、精神が発達しないんだろう。

 

自分の親は、見たくないものは見ようとしない親。

問題が起こっても、問題と向き合おうとしない。頭がおかしい。

 

自分の子どもでも、気に入らない、どうしても好きになれないという人は実はけっこういるらしい。

自分の親は、両親ともそれなんだろうな。

 

中村信次と中村郁代は、子どもに、自分のご機嫌をとってもらいたい、ご機嫌をとってくれる者しか愛せないんだろう。

自分たちのしてきたことを棚にあげて、子どもに、自分たちのご機嫌をとってもらいたがっている。

そのために子ども作ったのか?と思う。

 

だから、自分は、絶対に子どもを作れない。

親に暴力振るわれてるから絶対にムリ。

 

自分にとって、生まれ育った家庭は収容所のようなものだ。

収容所から出られて、もう二度と戻ってくることはないだろう。

 

中高がプロテスタント系のキリスト教の学校だったので、中高時代に宗教に入れば救われるかもしれないと考えたこともあるが、宗教も逃げだと考えるに至った。

 

キリスト教信者を見ていて感じるのは、自分が、キリスト教徒であることに自己陶酔していて、結局、自分の頭で物事を考えられない人々だということ。

 

同志社女子は、キリスト教徒でない生徒も多いが、結果的に、何も考えず、勉強せず、怠惰に付属の同志社大に内部進学しているのがほとんどだということから考えると、やはり、キリスト教は自己満足の宗教だという結論に、私の中では至った。

 

宗教っていうのは、弱い人間のためにあるらしいが、私からすると、「弱すぎる人間」のためにあると思われる。

問題は自力で解決しないと事態は打開されない。

救いを求めること自体が間違ってると思う。求めても、何も変わらない。

自分で何とかしないと、未来永劫変わらない。

自分で、自分を救わなければ変わらない。

 

変な甘やかされ方した者同士が結婚して、子ども育てる度量もないくせに、三人も子ども作って、偏った価値観で、物事を多面的に見る、客観視するということが一切できない。

何十年生きてても、それに気付かない、学びがない。

 

なぜ本当の親から否定され続けなければいけないのだろう。しつこくしつこく言ってくる。

アホに言い返しても話通じない。聞く耳ないのだから。

 

親のくせに、子どもに何を求めているのか。自分が与えてないのに自分の要求ばかり満たそうとする。

 

自分の両親の話を世話になってる人にして、自分が親に送った手紙を見せると、たぶん(親たちは)すごく鈍感なんだな、と言われた。

自分のことしか考えてない、考えられない人。周りが見えない。

手紙でなぜ、そういうことを言われるのか、分からない。

結局、伝わらない、ムダだと思う。

基本的に、的を外してる人たち。

考えるのをやめている。それが、人生の習慣になっている。

 

たぶん、自分の親は物を考えるだけの素質がないんだろうな。

そういう人は、結構、いっぱいいる。

 

その人によれば、私は、自分の、美しさの基準をもってる。反抗しつづけてると。

弟とかは、親の悪影響をモロに受けてると思う。切羽詰まった時に、パニックの人の行動をしている。(私のアパートに泊まった際、私が出かけた後に、出かけないといけなくて、アパートの二階の私のベランダから飛び降りて、結局腰の骨を折って救急車で運ばれた。)

 

相手のことを考えてないんだな、浅はかだな、って思った。

気にしない方がいいよ、と。

 

小学校でも、いつも一番にプリントできたといっても「それがどうした」という反応の反面、ちょっとでもできないと、鬼の首を取ったように「あかんやん」などと言われた。