学校教育の国語は思想教育。読書感想文はその最たるもの。読書とは。

国語に、「道徳」が持ち込まれている。

それは、小学校の国語から、センター試験に至るまでそう。

センター国語も、中学受験の国語も、出題者の「思想」に迎合しないと、解答を見つけられない。

結局、教科書作成者、問題出題者の「ご機嫌伺い」をして、それで「合格」ということになる。

 

小学校から高校まで、夏休みの宿題として、読書感想文を書かされる。

読書感想文を生徒に書かせるあの意図は、思想調査以外の何物でもない。

読書の効用なんてものは、読んですぐにあらわれるものではない。

読書感想文を書かせようとする側ほど、実のところ読書の意味を分かってない。

読書感想文の推薦図書、小学校から高校までの12年間、あのリストの中に、面白そうな本があった例がない。

あそこに載ってる本は量産型の自己啓発本と同じ。

推薦図書を指定するのは、洗脳の一種である。

その世代にその指定本を読ませて、その世代の全体意識を方向付けようとしている。

推薦図書指定者からの押し付け、教化である。

「こんな本を読め」と提示されることが気持ち悪い。

 

読書感想文というものは、何を書いても軽い。

ほんとに感動した本なら、そんなにすぐに言葉にできるものではない。

よって、読書感想文は、読みましたのアピールでしかない。上っ面。

読書感想文推薦図書も上っ面なら、感想文も上っ面。

こうやって、社会に出た時欺瞞に欺瞞を重ねる人間が養成されていく。

 

感動した本なら、その感覚を言葉で表現できるようになるまでは相当時間がかかる。

自分の中に取り込んで、自分と一体化して、それからまた、その本の要素を自分の中で見つめなおすプロセスが必要だからだ。

それは、その内容で受けた刺激が、自分の中にそれまでなかった感性だからだ。

自分にとってそこまで重要な一冊を、自分の中途半端な感性と言葉で汚すようなマネをしたくない。

 

だから、読書感想文に選ぶ本は、結局、そこまで感動しなかった一冊ということになる。

 

そもそも、読書で人間性(精神性)を高めようとするのは全くのお門違いだと言わざるを得ない。

本を読んでなくても賢い奴は賢いし、性格のいい奴はもとから性格いい。

小学生~高校生くらいだと、もとからの性質かける成育環境でできてる部分が大きい。

それ以降だと、人生で出会った人々、人生での経験の比重が増してくるが…。