他人の気持ちが分からない

他人の気持ちが分からないのは誰しもがそうだと思うけれど、自分の場合は、発達障害で、人と全く感じ方が違うから、そこから生まれる「気持ち」も、人と全く違ったものになる。

 

共感性がないから協調性もないと勝手に思われる。とくに教員や先輩など「目上」の奴らから。私は目上とは思ってないが。自分は自分よりすべての点で優れている人でないと自分より上とは思わない。

こっちはちゃんと全体を見て場に入ってやってるだろうが。

人といっしょになってワーワーワーワーわめいてたら満足なんか?といつも思う。

自分の思うような行動をしてほしいという俗悪な願望をこの自分は「目上」だと思っている奴らは持っている。

 

小学生のころは、同じ出来事に遭遇しても、他人の感情が自分の抱く感情とは全然違うから、人間は、こんなとき、こう思って、こんな行動をとる、というパターンが分かっていればいいのに、とよく考えていた。

物事には人によって感じ方が違うといっても、自分は、少数派ですらない。自分みたいな感じ方、考え方をするのは自分しかいない。だからいつも内面は孤独。でも人と合わせることはできる。相手を否定しなかければ、人と合わせるのは難しくない。

多数派、少数派がいるということは、人間は何パターンかに分けられるのだろうから、そのパターン別に、人の取り扱いマニュアルがあればよいのに、と思っていた。

 

20代半ばまで、世の中の人々に尋ねて回りたいと思っていた。「普通」の人が、一つの物事に対してどう感じるか、考えるか。なんでそういうふうに感じて、なんでそう考えるに至ったのかが私には分からないから。

定型発達の人間は、物事から受け取る感情の幅が狭い。バカなんだろう。脳神経が少ないのではないか?だから、少ないパターンの感情しかない。私からすれば、信じられない。けれど今は、「普通」の人間は自分が考えているよりもあまりにも少ない感情のパターンしかなく、その範囲でしか物事を感じられないのだろうということが分かった。少ない感情パターンしかないから、自ずと行動パターンも限られる。これが、哀れな、感性の乏しい、「普通」の人間の実態なのだろう。

 

取り扱いマニュアルという点では、感性とはまた違うが、体質という点では、20代後半に片山洋次郎の整体の本で「体癖」という概念を知り、そこで、他人の体癖までは分からないけれど、自分の体癖を知って、自分の考え方、体質のクセが腑に落ちて、大いに役立った。自分の取り扱い方が向上することで、それまでに比べてかなり精神に安定がもたらされた。