算数、数学に捧げた子ども時代[公文編]

幼稚園の年中だったか年長だったか、それくらいから、中二までずっと近所の公文式に通っていた。

週二回、確か火曜日と金曜日に通っていて、科目は算数(数学)と国語。

小六になる直前の2月からは中学受験で別の塾に行きはじめ、受験勉強だけで手いっぱいなので、3月から一年間、休会していた。そしてまた中学生になってから再開し、最後は中二でやめた。

やめた理由は、高校になったら公文の勉強法では通じないと父親が言い出したから。

こちらとしても、毎日片道1時間かけて通学し、部活もした後に、また公文に行くのが、体力、時間的に辛くなってきていた。

公文のプリントをやる時間がないから、下校の電車の中でプリントしたりしていた。

京都市営地下鉄の中で公文のプリントをやる中学生が私。

そういうわけで、公文には合計8年間くらい通っていた。

 

私は子どもの頃から根っからの文系で、公文もどんどん進んだ。

小三くらいで公文の小学校の範囲が終わって、中学生の範囲も終わり、小5で高校生の範囲に入ったと思う(確か)。

 

一方で、算数は苦労しながら進んだという感じ。

公文の算数はひたすら計算問題を解かせる方式で、採点は、途中式を見ず、答えだけ見てマルかバツかだけつけられる方式。

答えが間違ってたら、途中まで合っていても、有無を言わさずペン(バツ)。

実際の受験の算数、数学は途中式見て部分点つける方式なのに…。

たぶん一人の採点者が採点しなければならない人数が多いからその方式にしているのだろう、公文は。

でも、小学生の頃は、そんなこと知らなかったから、ただ、ひたすら、自分の出した答えが正解じゃないとダメだと思ってやっていた。

採点者は楽で、生徒は自力で解きなおさなければならない。

 

また、公文の算数(数学)でいちばん嫌な点が、新しい単元に入って、新しい考え方が必要になっても、プリントの上の方に計算例が二つくらいあるだけで、全く言葉での説明がない事。

子ども心に「え…」となった思い出がある。当惑という言葉はその時まだ知らなかったが、まさに、言葉での説明がないことに困惑、当惑した。引いた。

それで、その二例の計算式のすぐ下からいきなりいつもどおりに計算問題がはじまる。

計算例を見て意味が理解できる場合は良いが、全く意味がわからない場合もある。

そういう時でも、誰も解説してくれないし、解説してくれなくてもやらないと家に帰れないから、やる。

それで、プリントの表裏が全部バツだったことも…。今思い出しても嫌な気分になる。

公文を途中でやめる子って多い。

私は比較的根性ある性格で、食い下がって頑張ってたけど、私の弟と妹は、小学生時代に二回行って、二回辞めてる。

弟と妹には悪いけど、結果的に中学受験でも大学受験でも、私がいちばんいいとこ行ってる。

公文のやり方っていうのは冷たいよな。

先生というよりただの採点者は何も教えてくれない。自分で考えろ、という突き放したスタンス。

それでは、考えられない子はどうしようもない。

だから公文でそれに挫けてやめる人が多いのもわかる。

 

公文の算数ができなくて、何回再提出してもバツつけて返されて、しかも何の解説もない。

何時間も、教室で泣きながらやり直しをしていたことが、何回もある。

今考えるといじめだよな。

 

こういう苦労してきて学歴を勝ち得てるわけだから、やっぱ学歴は勉強してきたことの証明だと思う。

 

公文の算数は、結局、最後は、高二くらいの範囲で終わった。

 

公文の算数では、計算力、計算の速さは確実に養われた。

それと根性も。でも、なまじ根性だけついてしまったのが、大学受験の勉強でムダな時間を費やす悪因になった。

時間をかけて、努力すれば結果になる、という勘違いが自分の中で育った原因は公文の根性で頑張らせるやり方に一因がある。

もともと数学の素質がない私のような人間は、いくら努力してもある一定のレベル以上にはならない。

センター数学で言えば、私の場合、最高で数Ⅰ・Aは九割程度、数Ⅱ・Bは八割。それが限界。

それ以上は、簡単な問題の年か、たまたま得意な分野ばかりの年でないとムリ。

もともと素質のない者には限界があるということを、時間と労力を費やして十年くらいかけて学んだ。

もっと要領よくやりたかった。

大学受験の数学にかける時間を他の教科に振り向けるべきだったと、大学に入ってから気づいた。