高三の時に書いたもの

28歳になる前に、やっと、高校生のころ書いたものを読み返して、まとめることができた。

嫌な思い出、虐待の記憶を残すことができるようになった。

 

これは、もともとは、高三の時に、英語の教科書のルネ・マルグリットの章を授業でやってるときに配られた、参考資料のプリントの裏に書いていた。

 

それを、ずっと、ボロボロのまま、読み返すのが辛いから読み返せず、捨てるこもは絶対にできなくて、十年も保持してた。

 

その時書いたものから、分かりやすく、意味が通じるように、かなり加筆している。

 

中村信次には、自分のしたことが全て返ってきて、苦しんで、人に疎外されて、誰にも相手されずに死んでいってほしい。

 

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親に殴られずに育った人がうらやましい。

最初に親に殴られたのはいつか。

殴られた記憶があまりにも多すぎて分からない。

 

小学校二年の時、階段の途中で水の入ったバケツと雑巾を持ったまま殴られて、階段から落ちそうになったこと。

 

小学校六年のとき、算数の分からない問題をきいて、説明が分からなかったら頭を思いっきりたたかれたこと。

 

中学生のとき、学校の理科の課題の実験ノートを書いていて、陶器のコップで殴られ、数日痛みがとれなかったこと。

 

上記はほんの一例。

 

殴られるのはいつも頭。

 

今まで殴られてきたどの瞬間も、はっきりと光景を覚えてる。

殴られる瞬間、体は動かないのに目だけが離れたところから自分を見えているみたい。

(←これを書いたのは17か18歳の時。清書したのは30歳。当時よく霊的知識もなかったのにこんなの分かったよなあ、と思う。)

 

少なくとも一ヵ月は、本気で殺す方法を考えた。

 

勉強しろ、勉強しろ、ばっかりキチガイみたいに叫んでるのにいざ殴る時は頭を殴る。

頭良くなってほしいの?悪くなってほしいの?

(31歳の今思う。子どもみたいに、まだ神経が発達してない時期に、いちばんデリケートな部分、頭を殴る。頭おかしくなるぞ。)

 

多分、想像すらできないと思う。親に恵まれて育った人には。

こんなクソみたいな親のもとに生れてきて…。私、前世でなんかした?

 

餘部鉄橋で居眠り運転で事故起こした時も、怖いと泣いている妹に対して、警察の前ではごめんごめんと謝っていた。

警察の前だからでしょう。

公務員だから仕事なくなるかもしれないしな。

世間体を気にしているような謝り方。

反省はしていない。

 

今までの自分の行動をどう考えているのか。

こう問いかけても答えなんか出せる人間じゃない。

もし答えられたら、こんな振る舞いはしてこないはずだ。

殴ってくるのが、その答えかもしれない。

みじめな家族。

 

早く家を出たい。学生という存在は、家を出ても経済状態は親に依存している。早く稼げるようになりたい。

ここから逃げたらもう戻ってこない。

(←だから、大学生になっても滅多に帰省しなかった。)

 

暴力ふるったあとで、人が変わったように謝るタイプの男もいるという。

しかし、私たち(きょうだい)は一度も謝られたことがない。

 

何にも侵されないような強い魂が欲しいとずっと思ってきた。

(←すごい。高校生のときにそんなことを考えてたのか、自分。今30歳。)

どうすればそれが得られるのか。

 

こんなに苦しくても、暗い状態でも、生きていればきっといいことがあると思わなければ生きていけない。

 

殴られる瞬間、人は声を出すものだろうか。

この前、妹と私がたてつづけに殴られた時は、いつもはおしゃべりな妹でさえも声が出せなかった。やはり恐くて固まってしまうんだろうな。

次に私の方に向かってきたとき、殴られる前に大声をあげた。

うるさいのが嫌いで、流行の音楽も聴かないし、歌も歌わない私が。

それでも殴ってくるんだけどな。

 

せめて愛情が目に見える形で育ててほしかった。

 

手元にスクラップした5月11日付(←多分2007年)日経夕刊によると、DV加害者は、古典的な家族像を描いているそうだ。

 

携帯電話は与えられず、テレビゲームもさせてもらえず、すぐ殴るといったうちの家族はまさにその典型。

 

家庭内暴力を受けた人が、そのことについて書いた文章はたくさんあるが、それらの著者はみんな泣きながらそれを書いたと思う。

なぜなら私もまたこの文を泣きながら書いているから。

 

これから死ぬまで涙と苦しみの渦の中で生きていかなくてはいけない。

だから、結婚もしないし、子どもももたないと決めている。

私のところにうまれてきた赤ちゃんは、祖父母も暴力をふるうから、そんなところに生れてきた子どもが、可哀想すぎる。

私にも暴力をふるう血が流れていると思うと、やりきれなくて、悲しくて、涙が出てくる。

暴力を見て育ってるから、子どもができたら、絶対暴力をふるってしまうと思う。

 

私の性格がひねくれているのは(←2017年夏時点での注釈:いや、全然ひねくれてないと思う。2020年3月むしろ素直だと思う)、このように暴力を受けて育ってきたからだと思う。

 

なぜすぐに手が出るのか…。

弟や妹が殴られているのを見ても、体がこわばってさっと止めに行くことができない。

親が死ぬまで一生終わらないのか。それなら殺すしかない、と思う。

殴られるところを自己防衛のために刺したということなら言い分は通るでしょう。

 

 身内の恥は自分の恥らしいが(←高三でこんなこと書いてる。30の今はそんなのは関係ないと思う。28歳の時の注釈:肉体という物質面で類似はあっても精神は他人だ)私はきっと性格破綻者でしょう(←自分よく頑張ったなあ)。だからといって自殺をしても、もっと多くの人に迷惑がかかります。一生、できるだけひっそりと一人で死んでいきたいです。(←こういう頭のおかしな親に育てられると、こういう思考になってしまう典型。だからこれにとらわれて、社会に出ていけなくなる。虐待は結局、子どもを自殺に追い込むか、犯罪者に仕立て上げるかのどっちかだと、これを読めば分かると思う。どちらにしても、社会的に、閉じた人間を作り上げる。だから、このブログに全部書き出して、自分の背負ってるものを日のもとに晒して、捨てて、虐待された環境で形成された部分を滅して、ほんとうの自分になる。)

 

誰も慰めてくれる人はいない。

もはや人間ではなく、物質になりたい。

何も感じず、何も思わない無機物に。

でも、なれない。死なない限りは。(←28歳の今は、死んでも意識は続くことを知っている。)

本当は、慰めてくれる人が欲しい。

 

親に暴力をふるわれて、10代で早く子どもを産む人は、さみしいから、誰かに癒してほしいから、愛されたいからでしょう。

恋人に愛されてると思い込み、慰め合う。

 

子どもの心を斟酌せず、嫌な言葉を自分のストレス解消のために投げ付ける、そんな親のもとに生れた子どもの心は硬化してモノになってしまう。

 

私には親殺しをする子の気持ちがわかる。

こんなみじめな思いをさせた相手、自分の人間らしさを殺す相手に復讐したいと考えるのはごく当然の感情。

実際に殺人をして、親は子どもに殺されたかもしれないが、親はとっくの昔に子どもの心を殺してる。

人格を殺された子どもはただ、有機体として生きてるだけ。

親は、自分が人の心を殺したことを、自分の死で世間に公表した、それだけの事象。

 

母親はことなかれ主義、我関せず、諫めたりなんてとんでもない。

甲高い声でギャアギャア父親が言い返す。母親はやる気がないから黙る。

後でフォローもしてくれない。頼りない母親。こんなキチガイジジイと結婚するくらいだから、母親自体もまた大した人間でもない。

 

なんでこんなに殴られないといけないのか。なんでこんな家族なのか。

家族ってあたたかくて心地よいものらしいじゃないか、世間では。

 

最近では(←高校生のころ)、殴る一瞬前に、妹には素手で、私には物で殴るのか、と考える余裕さえ生まれてきた以上な事態。

 

虐待は連鎖するから私は自分でそれを断ち切らねばならない。

 

殴られる直前、こぶしが、ものが、迫ってくる瞬間、いつも、頭の中が空白にはり、目の前が真っ白になる。

 

相手がヒステリー起こしてるときから、目は、テーブルの木目しか見てないわけだが。

なぜなら、目に入れたくないから。ギャアギャアわめいてる、醜い人間を。

 

だから、ますます美しいものを求める。美しいものだけに囲まれて暮らしたい。

 

早くこの家から逃げ出したい、自由になりたい、という思いでいっぱい。

前世で何か悪い事うぃたからこんな親のもとに生れてきたのか?などと考えるけど、そんなことで納得できるわけもない。

 

暴力をうけて育った人間は、間違いなく人間としての質が落ちる。

肉体的な損傷はもとより、人格が歪む。破壊される。

 

なぜ私が何度も殴られないといけないのか。

なぜすぐヒステリーになるのか。なぜこんなに暴力的なのか。

なぜ私がこんな目に遭わないといけないのか。

いつも勉強勉強とうるさく言ってるのに、これは何の勉強なのか。

 殴られるのも勉強のうちなのか?

 

私が、私の子どもをもった時には、私が私の子どもを殴れ、ということを教えているのか。

 

一生忘れられない出来事がなぜこんなにみじめなものなのか。

 

もっと楽しく、美しい思い出を、一生忘れない出来事にしたかった。

 

私はなぜこんな親のもとに生れてきたのか…愕然とする。

 

虐待に耐え続けたほどの忍耐力をもっているが、その反動としての代償も大きいだろう。

我々きょうだいはとても不幸だと思う。(←我々きょうだいを知る人には、弟は悪影響受けてる、と。そうだろうなあ…。)

 

心中いつもいつも、いつ暴力をふるわれるか、ふとした表紙にまた火がつかないかうかがってる、そういう立場なのが悔しい。

 

悪い事をしたら怒られるのは当然だが、悪意がなくて、失敗しただけの時に、ヒステリー起こされ、殴られる。

叱ると自分のイライラの解消の区別がついてない親。

親が機嫌が悪くて、子どもがした何かちょっとしたことが引き金になると、叱るのと同じようにヒステリー起こして、叱っているのか八つ当たりなのか、分からない。

どっちが子どもなのか…。すごく幼い精神性、成長がない。

 

親に殴られたことがない人ははじめから悪いことなどしないのだろうか。

そんなことはないよな。

親に放っておかれたばかりに、(つまりネグレクト、叩かれることもない)悪くなる人もいれば(←高校生の時の見方。今はこれはちょっと違うと思う。親に殴られるのと人間の人格は別)、親に殴られたことも、少しも叩かれたことすらない人でも立派な人もいる。

(←こんな考え方になってることが悲しい…。今は変ってよかった。「殴って矯正」という考え方に毒されている…。そういうふうな思考回路にした親が憎い。自分のしたことが全て返ってきた上で、苦しんで、惨めに死んでほしい。生きてる間も人に避けられ、不幸で、死後もずっと不幸であり続けてほしい。)

自分は叩かれないとまともにならないと思われてるのか…。

 

今は早く家を出て大学に行きたい、そして早く就職して親にも何にも頼らず一人で生きたい。

そればかりを考えていて、それが、今生きてることの目標です。

 

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高三のときに書いた文章終り。

 

最後に、「人間って何のために生きてるんやろな…?」と書いてた。